Regulus

師子の心臓―教育とは、社会という一つの生命体の生命維持活動である。

外国人労働者の受け入れと教育

2018年11月現在、日本では外国人労働者の受け入れの増加に向けた入管法の改正が大きな話題になっている。外国人労働者を受け入れるべきか否かという議論に関して、私は門外漢であるため判断を下すことは難しいが、外国人労働者を受け入れるということで日本社会がどのように変化するかということに関して、教育に着目しながら議論をすることはできる。ここでは、外国人の増加と教育がどのように関わるのか、考えてみたい。

まず、はじめに一つの神話の話をしたい。それは、日本は文化的に同質的な社会である、という神話である。近年、テレビの中のいわゆる芸能界と呼ばれる世界においても「ハーフタレント」と呼ばれる方たちの活躍が目立つようになったし、身の周りでも外国人と思われる人を見かけることが多くなってきた。そのため、同質的だった日本社会も多文化化しつつある、と感じるようになっている方も多いかもしれない。しかし、実は日本社会はもうずいぶん前から多文化社会である。たとえば、1945年の終戦を迎えた時点にはすでに(もちろんそれ以前から)、多くの在日朝鮮人の人々が日本では暮らしていた。更に、1990年代以降には、多くの日系南米人やアジア諸国からの外国人花嫁たちが日本に流入したことで、日本における外国人人口は急激に増加している。

では、具体的にはどのくらいの数の外国人が日本で暮らしているのだろうか。少し古いが2015年の法務省の統計によれば、その時点で223万2189人の外国籍者が日本に滞在していると記されている。日本の人口を1億2000万人とすれば、これは全人口の1.8%の数字になる。約2%という数字は小さいように思えるが、日本の人口の50人に1人が外国人であると言いかえれば、その数は決して少なくはないだろう。

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(図は法務省HPより)

このように一定の規模を占めるまで増加している日本の外国人であるが、外国人の増加はもちろん外国人の子どもの増加も意味している。先程の法務省の統計によれば、19歳以下の外国籍者数は28万8749人であるという。この数には外国籍の子どもしか含まれていないが、日本には外国人との国際結婚家庭から生まれた子ども(日本では、血統主義が採用されているため、こうした子どもたちは日本国籍を持っている)や、日本に帰化した家族の子どもなど、法務省の統計には含まれていない子どもたちも多い。そうした19歳以下で日本国籍を持つ外国につながる子どもは2015年時点では42万8582人に上ると思われ、19歳以下の外国籍者数と合計すれば約71万人の外国に何らかのつながりを持つ子ども(以下、外国につながる子ども)が日本で生活していることになる。さて、内閣府の統計によれば、2014年時点における日本の19歳以下人口は約2200万人であるので、19歳以下の約3%が外国につながる子どもだということが言える。約33人に1人が外国人につながる子ども、という状況を学校現場に惹きつけて考えれば、各クラスに1人は外国につながる子どもがいるということになり、決して少なくない数であることがわかる。

ここまで、日本社会や日本の学校の教室が多文化化している状況を紹介してきたが、他方でなぜ多文化化が加速したのか、ということに触れていなかった。20世紀半ばにおける在日朝鮮人については、戦争による植民地支配が背景にあることは明らかであろうが、1990年代に外国人が急増したのは一体なぜか。それは、2018年現在の情況とそれほど大きくは変わらない。というのも、1989年の入管法の改正によって、就労に制限のない在留資格「定住者」が創設され、日系三世(とその配偶者および未婚未成年の子)に対して、在留資格「定住者」が付与されることになったことが、一つのカギになっているのである。ただ、法改正の前から多くの合法的な就労資格のない外国人労働者が増加していたという背景があり、こうした現実への方針を示すという意味がこの法改正にはあった。そこで示された基本方針は、いわゆる「単純労働者」は受け入れない(専門的・技術的労働者は積極的に受け入れる)というものだった。つまり、多くの「単純労働者」の流入という結果は政策的に意図されたものではなかったということであり、この点は現在の状況とはかなり異なる部分かもしれない。

政策的意図はともかくとして、政策の結果として増加した外国人を日本社会はどのように包摂しているのだろうか。ここでは教育にのみ着目しながら、ほんのすこし言及したい。結論から言えば、日本の教育は外国につながる子どもたちの教育にかなり消極的であると言えるだろう。そのことを象徴するのが、外国人に対する義務教育の適用除外である。つまり、日本人であれば義務教育年齢で学校に通っていない場合、行政が学校に通わせるように積極的な努力がなされるが、外国人の場合は放置されてしまうのである。このため、義務教育すら受けていない外国につながる子どもが日本には多く存在している。さらに、仮に学校に行ったとしても、外国につながる子どもたちが受けることができる支援はかなり限られている。というのも、日本の学校で外国につながる子どもたちが受けることができる支援は、日本語指導に限られ、彼らの母文化や母語の教育の機会は与えられていない。外国人学校があるではないか、という人もいるかもしれないが、外国人学校は日本においてかなり低い法的地位にあり、卒業しても義務教育の履行とはならない。また、日本の学校で行われる日本語教育もほとんどの場合、日本語教育の専門教員によってなされるわけではなく、普通の教師が担当について行うものであるため、十分な教育とは言えない。

外国につながる子どもたちへの教育はかなり大きなテーマであり、ここではこれ以上広げることはできないが、多くの問題が解決されることなく、多くの場合は殆ど政策的な議論も成されない場合放置されている現状があることだけはここで指摘しておきたい。2018年11月現在行われている入管法の改正と外国人の受け入れによって、外国人の人口が増加することが間違いない。今度の増加は1990年代と異なり、外国人の受け入れに政府はかなり積極的であるため、1990年代以降の増加を上回る速さで外国人の流入が増加する可能性もある。日本社会の労働力不足という手前勝手な都合で外国人労働者を受け入れるのであれば、外国人にとって生きやすい日本社会をまずは構築すべきである。教育という観点で見つめてきた限りでは、日本政府が外国人にとって生きやすい環境をつくるための努力を十分に行ってきたとは思えない。新しい外国人の受け入れを議論する前に、すでに存在している外国人と向き合い、その処遇を見直すべきではないか、そう思わずにはいられない。

 

榎井縁(2017)「外国人と外国につながる子どものいま―そのさまざまな姿」荒牧重人・榎井縁・江原裕美・小島祥美・志水宏吉・南野奈津子・宮島喬・山野良一[編]『外国人の子ども白書権利・貧困・教育・文化・国籍と共生の視点から』明石書店, pp.21-24

宮島喬鈴木江理子(2014)『外国人労働者受け入れを問う』岩波書店

教育格差とはなにか

背景と現状

19世紀後半の西洋を範とした近代学校制度の導入に伴って、日本の近代学校は出発する。日本に住む殆どの人々にとって、近代学校で教育を受けるのが社会における通過儀礼となっていくのには時間がかかった。しかし、近代学校制度の導入は、学校という選抜機能を持った機関を中心に社会の構造が決定されていく社会の始まりを意味していた。つまり、ここにおいて日本における学歴社会の基盤が形成された。(教育学をつかむ)

 

こうした学歴社会は「メリトクラシー」という考え方によって正当化されている。メリトクラシーとは誤解を恐れずに言えば「実力主義」のことである。つまり、出身身分や親の職業にかかわらず、能力のある人間にその能力に適した地位が与えられるような社会のことを指す。そうした社会では、努力をして実力をつけさえすれば、誰でもどのような地位でも獲得し得ると信じられている。学歴社会では、実力の大きな指標が学力である、ということになる。(教育の社会学

 

即ち、学力における格差が日本社会においては、社会的な地位の格差に繋がり。そして、そうした格差はメリトクラシーという考え方によって正当化されている。

こうした考えに基づいて、学校は適切に人材の選抜を行っているにすぎず、教育と社会階層の間には特に議論するべき問題はないということができるか、と言えば、そうではない。なぜなら、このメリトクラシーの考え方には問題があるからだ。それは実力を身に付ける機会はすべての人の平等に分配されていない、ということにある。具体的に言えば、実力を身に付ける機会は家庭の階層的な要因によって大きく規定されているのだ。そこで我々は、社会階層によって学力や実力を身に付ける機会が規定されてしまう状況、というものを問題として設定する。

 

まず、学力と階層の間の関係に関して、これまでどのような議論がなされてきたのかを振り返る。これまでの代表的な研究に基づくと、日本においては階層間の学力格差というものは明らかに存在をし、且それは時を経て拡大をしているということが言える。

たとえば、2001年に行われた「東大関西調査」によれば、子どもたちの家庭の文化階層を上位・中位・下位に分けてそれぞれの学力を比較したところ、文化的階層(職業階層、学歴階層、収入階層などを代替指標とした階層)が低くなるにつれて学力が低くなっていることが示された。また、苅谷剛彦先生は「東大関西調査」のデータを時系列的な観点からさらに深め、学力の階層間格差がどのように変化しているのかを調べた。苅谷先生の分析によると、1989年と2001年の間の数字を比較したとき、2001年においての方が1989年における格差よりも深刻な状況であることがわかり、階層間の学力格差は拡大していることが明らかになった。近年の調査に関しては同様な規模の量的な調査はあまり見当たらないが、志水宏吉先生は現在も同様の格差があると指摘をしている。

 

課題・問題点

ここまでの内容で、学歴社会日本においてさえも、どの家に生まれるかということがその子どもたちが将来どのような社会階層を獲得することができるのか、ということを規定している、ということ―「ペアレントクラシー」的状況―が明らかになった。ここからは、なぜ、階層が学力を規定してしまうのか、ということについて、これまでの研究に基づきながら言及する。

 

ここで言及するのは、経済的な格差からくる学力格差、文化資本における格差からくる学力格差、そして学習意欲における格差からくる学力格差の三点である。

 

まずは、経済的な格差からくる学力格差について。

まず、一つの統計を示す。

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これは、2006年に大阪府で実施された小・中学生の学力実態調査からのものである。

2001年の段階での統計と比較すると、どの得点層もまんべんなく一定数の学生がいることがわかる。

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このデータを、塾に通っている子どもとそうでない子どもで分類したものがこれである。

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ここから、読み取れることは塾に行くものとそうでないものの間の学力格差が両者を合成すると台形が生まれるほどに明らかである、ということだ。

同様に耳塚の調査でも、特に都市部においては「通塾の有無」が学力に大きな影響を及ぼす要因であることを示している。

塾に通うためには、経済的な一定の豊かさが必要である。また、通塾のほかにも「私立と公立の格差」においても、同様のことが言えるだろう。つまり、「通塾の有無」などを通じて経済的な格差が学力格差を帰結しているということが見える。

 

次に文化資本における格差からくる学力格差について。

文化資本」という言葉は、フランスの社会学者P.ブルデューによって用いられた言葉である。簡単言えば、「文化的に価値のあるもの」の総体を指している。この考えは社会学の葛藤理論的な系譜の中から生じている概念であり、「文化資本」という言葉にはそれを感じとることができる。「文化資本とは文化的に価値のあるものの総体である」と述べたが、「文化的に価値があるもの」とは誰が決めるのだろうか。それは、社会における特権階級に属している人々である。言い換えれば、特権階級の人々に偏って共有されている文化が「文化的に価値があるもの」であることが多い。つまり、「文化的に価値のあるもの」は底辺階級の文化においてはそれほど共有されているもので無いことが多く、そこには階層間の格差が存在している。「文化的に価値のあるもの」としての文化資本には教育に関するものもある。例えば、「家庭で学習する習慣」や「学校での成功を重視する価値観」などがそれである。こうした価値観や習慣も社会階層に偏って偏在しており、苅谷剛彦先生の調査によれば、親の職業的階層や学歴的な階層が高ければ高いほど、子どもたちがそうした習慣や価値観をもっていることが明らかにされている。

 

 

三点目は、学習意欲における格差からくる学力格差である。

学習意欲は、捉え方によっては文化資本的な側面に含まれるのかもしれないが、論点として興味深いのであえて文化資本とは分けて語ることにする。

志水宏吉先生は、学力の木という考えの下で、「学習意欲」は知識や技能を形成していくための「根っこ」のような役割を持つものであると述べている。意欲がなければ学習をしようとは思わないであろうし、これは誰もが納得できる主張であると思う。だからこそ、学習意欲において、階層間の格差があればそれは学力の格差へと直結するものであると考えられる。

では、学習意欲において階層間の格差はあるのか。苅谷剛彦先生の研究によれば学習意欲において階層間の格差は存在しており、それは学力格差と同様に時とともに拡大している、という。

学習意欲と言っても、意欲には二つの側面がある。一つは内発的に動機付けられた意欲であり、もう一つは外発的に動機付けられた意欲である。例えば、学校的な勉強することそれ自体が喜びであり、その喜びを得るために学校の勉強を行う場合、それは内発的に動機付けられた学習である。一方で、社会で一定の地位を得るためにはそれなりの学力を修めなければいけないからという理由で学校の勉強を行う場合、それが外発的に動機付けられた学習である。1989年の学修指導要領以降、「教育における競争に否定的な姿勢」とそれを「内発的に動機づけられた学習―主体的な学習」でカバーしようという意図が、学習指導要領には含まれている。これはいいかえれば、学習における「外発的な動機づけ」を見えにくくし、一方で「内発的な動機づけ」をより強調する傾向であるといえる。

こうした意図での指導要領の改革の結果、何が起きたのか。苅谷剛彦氏によればそれは、底階層出身の子どもたちの急速な意欲低下であり、学習離れであった。

なぜそれが起きたのかと言えば、低階層出身の子どもたちは、文化資本の部分でも触れたが、学校的な価値を重視する傾向が低く、そのため学習への意欲はおもに外発的な動機づけによって支えられていた。しかし、学習指導要領の改革に伴って外発的な動機付けの側面が見えにくくなってしまい、結果として意欲そのものが低下することになってしまったのだ。一方で高階層出身の子どもたちにとっては、学習指導要領の改正で外発的な動機付けが見えにくくなっても、外発的な側面の重要性に対する理解に大きな変化はなく、且、低階層出身の子ども以上に、内発的にも動機づけられているため、意欲は低下しなかったということが言える。

このように、一見すると個人の問題のようにも見える学習意欲でさえも、階層によって大きく規定されていることがわかる。

 

以上みたように、階層的な要因が学力格差の背景にはあるのだ。

 

 

 

参考文献

苅谷編著 教育の社会学 有斐閣アルマ

苅谷、志水編著 学力の社会学

木村、小玉、船橋 教育学をつかむ 有斐閣

苅谷 学力と階層 朝日新聞出版

苅谷 階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会

志水 「つながり格差」が学力格差を生む 

Deweyと日本の教育 民主主義と教育を読んで

はじめに

先日、ジョン・デューイの著した「民主主義と教育」という本を読みました。

この本は経験主義、もしくはプラグマティズムとして知られる、デューイの教育哲学の入門書として位置づけられるものであり、デューイの教育哲学があらゆるテーマに渡って広く紹介されています。内容としては、抽象的で哲学的な表現も多く容易に読み進められるような本ではなかったと思うのですが、現在の社会における教育の変遷の潮流を考えてると一読の価値ありの一冊なので、おすすめです。

 

この記事においては、現在の日本における教育をデューイの教育哲学の観点から考えてみるという試みです。ですが、自分はデューイの教育哲学の専門家ではないので、デューイの考えについての理解に誤りもあるでしょう。なので、そういったことを発見された方はぜひ気軽に教えてほしいです!

 

経験主義

まず、デューイの教育哲学の根本にあるのは、経験主義です。

経験主義とは何ぞや、ということになると思うのですが、ざっくり言えば、教育の目的は経験をよりよいものへと発展させて行くことであり、その過程は経験の分析から始まり、経験を通して経験とともに行われるということです。

たぶんわかりにくいですね。方法を変えましょう。

たとえば、教育の目的を思い浮かべたときに、頭に思い浮かぶことは何でしょうか。

自分が今まで受けてきた教育を思い浮かべると、それはなんとなく知識を身に付けることにあった気がします。テストで問われる知識を覚えるために授業を受けていましたし、テストの知識が重要視されていたのも、大学受験で問われる知識がテストの知識だったからでした。

こうした教育においては、知識そのものが教育の目的になっています。

しかし、デューイの考える教育の目的は違います。

デューイにとっては知識は目的ではなくて、経験の発展が目的であり、知識は経験の発展を助ける道具的な役割を持つものでしかないのです。具体的に言えば、教室で習う知識はテストで言い点を取るためではなく、そうした知識を利用して学ぶ人間の人生を豊かで幸福なものへと変えていくことにある、ということです。そしてそのために、そうした教育はまず、学ぶ人の人生にどんな問題があるのか、どうやってその問題を乗り越えることが出来るのか、そのためには何がなされなければならないのか、というような学習を行う主体の経験の分析から始まらなければならない、ということになります。

これが、自分が理解しているところでの、デューイの経験主義の意味です。

 

経験主義と日本の教育

さて、この経験主義の考えを日本の教育の現状と照らし合わせてみたとき、なにが言えるでしょう。先程、自分自身の教育経験を具体例にとった際に述べたように自分自身の教育経験においてはあまり経験主義といわれるような要素はなかったように思います。テストありきの授業でしたし、大学受験や進学試験ありきのテストでした。そして、おそらくこうした傾向は決して自分のみの経験ではなく、日本の学校教育一般的に言える傾向であると思います。自分と同様に多くの学生の経験においては進学試験で問われる知識を得ることが教育の目的であったと思います。つまり、日本の教育においては一般的に経験主義的な教育が実践されているとは言えない情況がある、といえるのでしょう。

民主主義社会では、知識階層と労働者階層の分断が否定され、結果としてこれまでそうした階級の分断によって成立してきた知識と経験の分断も同様に否定されると信じていたデューイはきっと、発展した民主主義社会としての日本においても経験主義的ではなく、啓蒙主義的な教育が行われていることに落胆するかもしれません。

 

教育の変化の潮流

しかし、その一方で経験主義的な潮流が近年世界的にもに日本においても、高まっていることは同時に否定できない一つの事実なのです。経験主義的な潮流として代表的なものとして、生徒中心主義と新しい学力観をここでは取り上げたいと思います。

生徒中心主義

まず、ここ何年かの教育における議論で頻繁に聞く考え方に、生徒中心主義と呼ばれるような考え方があります。これは、これまでの教員中心の思想に基づいた、知識の教員から生徒への一方向的な教授というあり方に対応する考え方のことで、生徒自身が自身の経験と結びつけながら主体的に学ぶような教育のあり方を重要視する見方のことです。

経験主義的な教育は、学習者の経験の発展が目的である、知識は手段にすぎないという事を少し前に述べました。そして、経験の発展のためには現在の学習者の経験の分析から始めなければなりません。生徒中心主義を中心とした教育は、まさに生徒自身の現状の分析に始まり、現状を知識を利用することで発展させていく過程であり、経験主義的な教育観を帯びたものだといえるとでしょう。

現在、目前の学習指導要領の改正において、Active Learningと呼ばれるものが大きな中心的な話題の一つになっていますが、このActive Learning は生徒中心主義的な教育実践に位置づけられるようなものであり、同時に経験主義的な教育実践といえる思います。故に、現在、日本社会において経験主義的な教育の重要性が高まっていることは、一つの事実であるといえるだろうと、自分は思います。

新しい学力観

現在注目を浴びる経験主義的な教育実践として、もう一つあげられるものには、新しい学力観と呼ばれる教育価値観があります。

新しい学力観とは、21世紀の始まりにおけるPISAショックによって提起された新しい学力のあり方に関する考え方のことです。PISAというのはOECDが国をまたいで行う学力調査であり、その試験においては、単純な知識が問われるのではなく、知識を利用して経験における問題を実際に解決していくような応用力や問題解決能力が問われます。2000年代の初めのPISAにおいて、日本は他国と比較してその成績が後退しているということが示されました。その結果が与えた影響は大きく、日本の教育界においてPISAが重要視するいわゆる新しい学力観の重要性が急速に議論されるようになりました。その結果、”生きる力”という言葉の下に新しい学力観は学習指導要領にとりこまれ、祖の力を養う実践として総合的な学習の時間という科目が新たに設定され実施されるようになりました。現在も、PISAによる教育比較は世界的な教育の議論において注目されており、日本でも”生きる力”の養成の試みは続いています。

あえて言わなくとも明らかのように、単なる知識を教育の目的とするのではなく、知識を応用し現実の問題を解決する力を重要視するようなPISAが示した新しい学力観やそれに基づいて提起された”生きる力”はデューイの考える知識と経験の関係に酷似しています。つまり、こうした学力観に関する新しい教育の潮流を考えると、日本や世界においてデューイの経験主義的な教育の重要性が高まっていることは一つの事実であるといえるでしょう。

おわりに

ここまで、デューイの経験主義と現代日本の教育を関連付けてみてきました。ここまでの議論をまとめれば、日本の教育は決して経験主義的な教育が中心的に実践されているとは言えないけれど、経験主義的な教育潮流が芽生えつつあることも同様に事実である、といったことになるだろう。

さて、デューイがもしも、この日本の教育をみたら、どんな言葉をかけるでしょうか。

 

この文章の中で、日本における非経験主義的実践の一般性生徒中心主義PISAショックについて触れた部分は、自分自身が記憶しているものや個人的な経験を頼りに書かれており、そのため自分で言うのも申し訳ないのですが、信用に足るものではないように思うので、今後しっかり文献等を当たってしっかりReferenceをつけるまでは適当に読み流してください。もしくは一回自分で調べてみてください。よろしくお願いします。