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師子の心臓―教育とは、社会という一つの生命体の生命維持活動である。

Deweyと日本の教育 民主主義と教育を読んで

はじめに

先日、ジョン・デューイの著した「民主主義と教育」という本を読みました。

この本は経験主義、もしくはプラグマティズムとして知られる、デューイの教育哲学の入門書として位置づけられるものであり、デューイの教育哲学があらゆるテーマに渡って広く紹介されています。内容としては、抽象的で哲学的な表現も多く容易に読み進められるような本ではなかったと思うのですが、現在の社会における教育の変遷の潮流を考えてると一読の価値ありの一冊なので、おすすめです。

 

この記事においては、現在の日本における教育をデューイの教育哲学の観点から考えてみるという試みです。ですが、自分はデューイの教育哲学の専門家ではないので、デューイの考えについての理解に誤りもあるでしょう。なので、そういったことを発見された方はぜひ気軽に教えてほしいです!

 

経験主義

まず、デューイの教育哲学の根本にあるのは、経験主義です。

経験主義とは何ぞや、ということになると思うのですが、ざっくり言えば、教育の目的は経験をよりよいものへと発展させて行くことであり、その過程は経験の分析から始まり、経験を通して経験とともに行われるということです。

たぶんわかりにくいですね。方法を変えましょう。

たとえば、教育の目的を思い浮かべたときに、頭に思い浮かぶことは何でしょうか。

自分が今まで受けてきた教育を思い浮かべると、それはなんとなく知識を身に付けることにあった気がします。テストで問われる知識を覚えるために授業を受けていましたし、テストの知識が重要視されていたのも、大学受験で問われる知識がテストの知識だったからでした。

こうした教育においては、知識そのものが教育の目的になっています。

しかし、デューイの考える教育の目的は違います。

デューイにとっては知識は目的ではなくて、経験の発展が目的であり、知識は経験の発展を助ける道具的な役割を持つものでしかないのです。具体的に言えば、教室で習う知識はテストで言い点を取るためではなく、そうした知識を利用して学ぶ人間の人生を豊かで幸福なものへと変えていくことにある、ということです。そしてそのために、そうした教育はまず、学ぶ人の人生にどんな問題があるのか、どうやってその問題を乗り越えることが出来るのか、そのためには何がなされなければならないのか、というような学習を行う主体の経験の分析から始まらなければならない、ということになります。

これが、自分が理解しているところでの、デューイの経験主義の意味です。

 

経験主義と日本の教育

さて、この経験主義の考えを日本の教育の現状と照らし合わせてみたとき、なにが言えるでしょう。先程、自分自身の教育経験を具体例にとった際に述べたように自分自身の教育経験においてはあまり経験主義といわれるような要素はなかったように思います。テストありきの授業でしたし、大学受験や進学試験ありきのテストでした。そして、おそらくこうした傾向は決して自分のみの経験ではなく、日本の学校教育一般的に言える傾向であると思います。自分と同様に多くの学生の経験においては進学試験で問われる知識を得ることが教育の目的であったと思います。つまり、日本の教育においては一般的に経験主義的な教育が実践されているとは言えない情況がある、といえるのでしょう。

民主主義社会では、知識階層と労働者階層の分断が否定され、結果としてこれまでそうした階級の分断によって成立してきた知識と経験の分断も同様に否定されると信じていたデューイはきっと、発展した民主主義社会としての日本においても経験主義的ではなく、啓蒙主義的な教育が行われていることに落胆するかもしれません。

 

教育の変化の潮流

しかし、その一方で経験主義的な潮流が近年世界的にもに日本においても、高まっていることは同時に否定できない一つの事実なのです。経験主義的な潮流として代表的なものとして、生徒中心主義と新しい学力観をここでは取り上げたいと思います。

生徒中心主義

まず、ここ何年かの教育における議論で頻繁に聞く考え方に、生徒中心主義と呼ばれるような考え方があります。これは、これまでの教員中心の思想に基づいた、知識の教員から生徒への一方向的な教授というあり方に対応する考え方のことで、生徒自身が自身の経験と結びつけながら主体的に学ぶような教育のあり方を重要視する見方のことです。

経験主義的な教育は、学習者の経験の発展が目的である、知識は手段にすぎないという事を少し前に述べました。そして、経験の発展のためには現在の学習者の経験の分析から始めなければなりません。生徒中心主義を中心とした教育は、まさに生徒自身の現状の分析に始まり、現状を知識を利用することで発展させていく過程であり、経験主義的な教育観を帯びたものだといえるとでしょう。

現在、目前の学習指導要領の改正において、Active Learningと呼ばれるものが大きな中心的な話題の一つになっていますが、このActive Learning は生徒中心主義的な教育実践に位置づけられるようなものであり、同時に経験主義的な教育実践といえる思います。故に、現在、日本社会において経験主義的な教育の重要性が高まっていることは、一つの事実であるといえるだろうと、自分は思います。

新しい学力観

現在注目を浴びる経験主義的な教育実践として、もう一つあげられるものには、新しい学力観と呼ばれる教育価値観があります。

新しい学力観とは、21世紀の始まりにおけるPISAショックによって提起された新しい学力のあり方に関する考え方のことです。PISAというのはOECDが国をまたいで行う学力調査であり、その試験においては、単純な知識が問われるのではなく、知識を利用して経験における問題を実際に解決していくような応用力や問題解決能力が問われます。2000年代の初めのPISAにおいて、日本は他国と比較してその成績が後退しているということが示されました。その結果が与えた影響は大きく、日本の教育界においてPISAが重要視するいわゆる新しい学力観の重要性が急速に議論されるようになりました。その結果、”生きる力”という言葉の下に新しい学力観は学習指導要領にとりこまれ、祖の力を養う実践として総合的な学習の時間という科目が新たに設定され実施されるようになりました。現在も、PISAによる教育比較は世界的な教育の議論において注目されており、日本でも”生きる力”の養成の試みは続いています。

あえて言わなくとも明らかのように、単なる知識を教育の目的とするのではなく、知識を応用し現実の問題を解決する力を重要視するようなPISAが示した新しい学力観やそれに基づいて提起された”生きる力”はデューイの考える知識と経験の関係に酷似しています。つまり、こうした学力観に関する新しい教育の潮流を考えると、日本や世界においてデューイの経験主義的な教育の重要性が高まっていることは一つの事実であるといえるでしょう。

おわりに

ここまで、デューイの経験主義と現代日本の教育を関連付けてみてきました。ここまでの議論をまとめれば、日本の教育は決して経験主義的な教育が中心的に実践されているとは言えないけれど、経験主義的な教育潮流が芽生えつつあることも同様に事実である、といったことになるだろう。

さて、デューイがもしも、この日本の教育をみたら、どんな言葉をかけるでしょうか。

 

この文章の中で、日本における非経験主義的実践の一般性生徒中心主義PISAショックについて触れた部分は、自分自身が記憶しているものや個人的な経験を頼りに書かれており、そのため自分で言うのも申し訳ないのですが、信用に足るものではないように思うので、今後しっかり文献等を当たってしっかりReferenceをつけるまでは適当に読み流してください。もしくは一回自分で調べてみてください。よろしくお願いします。