Regulus

師子の心臓―教育とは、社会という一つの生命体の生命維持活動である。

教育格差とはなにか

背景と現状

19世紀後半の西洋を範とした近代学校制度の導入に伴って、日本の近代学校は出発する。日本に住む殆どの人々にとって、近代学校で教育を受けるのが社会における通過儀礼となっていくのには時間がかかった。しかし、近代学校制度の導入は、学校という選抜機能を持った機関を中心に社会の構造が決定されていく社会の始まりを意味していた。つまり、ここにおいて日本における学歴社会の基盤が形成された。(教育学をつかむ)

 

こうした学歴社会は「メリトクラシー」という考え方によって正当化されている。メリトクラシーとは誤解を恐れずに言えば「実力主義」のことである。つまり、出身身分や親の職業にかかわらず、能力のある人間にその能力に適した地位が与えられるような社会のことを指す。そうした社会では、努力をして実力をつけさえすれば、誰でもどのような地位でも獲得し得ると信じられている。学歴社会では、実力の大きな指標が学力である、ということになる。(教育の社会学

 

即ち、学力における格差が日本社会においては、社会的な地位の格差に繋がり。そして、そうした格差はメリトクラシーという考え方によって正当化されている。

こうした考えに基づいて、学校は適切に人材の選抜を行っているにすぎず、教育と社会階層の間には特に議論するべき問題はないということができるか、と言えば、そうではない。なぜなら、このメリトクラシーの考え方には問題があるからだ。それは実力を身に付ける機会はすべての人の平等に分配されていない、ということにある。具体的に言えば、実力を身に付ける機会は家庭の階層的な要因によって大きく規定されているのだ。そこで我々は、社会階層によって学力や実力を身に付ける機会が規定されてしまう状況、というものを問題として設定する。

 

まず、学力と階層の間の関係に関して、これまでどのような議論がなされてきたのかを振り返る。これまでの代表的な研究に基づくと、日本においては階層間の学力格差というものは明らかに存在をし、且それは時を経て拡大をしているということが言える。

たとえば、2001年に行われた「東大関西調査」によれば、子どもたちの家庭の文化階層を上位・中位・下位に分けてそれぞれの学力を比較したところ、文化的階層(職業階層、学歴階層、収入階層などを代替指標とした階層)が低くなるにつれて学力が低くなっていることが示された。また、苅谷剛彦先生は「東大関西調査」のデータを時系列的な観点からさらに深め、学力の階層間格差がどのように変化しているのかを調べた。苅谷先生の分析によると、1989年と2001年の間の数字を比較したとき、2001年においての方が1989年における格差よりも深刻な状況であることがわかり、階層間の学力格差は拡大していることが明らかになった。近年の調査に関しては同様な規模の量的な調査はあまり見当たらないが、志水宏吉先生は現在も同様の格差があると指摘をしている。

 

課題・問題点

ここまでの内容で、学歴社会日本においてさえも、どの家に生まれるかということがその子どもたちが将来どのような社会階層を獲得することができるのか、ということを規定している、ということ―「ペアレントクラシー」的状況―が明らかになった。ここからは、なぜ、階層が学力を規定してしまうのか、ということについて、これまでの研究に基づきながら言及する。

 

ここで言及するのは、経済的な格差からくる学力格差、文化資本における格差からくる学力格差、そして学習意欲における格差からくる学力格差の三点である。

 

まずは、経済的な格差からくる学力格差について。

まず、一つの統計を示す。

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これは、2006年に大阪府で実施された小・中学生の学力実態調査からのものである。

2001年の段階での統計と比較すると、どの得点層もまんべんなく一定数の学生がいることがわかる。

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このデータを、塾に通っている子どもとそうでない子どもで分類したものがこれである。

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ここから、読み取れることは塾に行くものとそうでないものの間の学力格差が両者を合成すると台形が生まれるほどに明らかである、ということだ。

同様に耳塚の調査でも、特に都市部においては「通塾の有無」が学力に大きな影響を及ぼす要因であることを示している。

塾に通うためには、経済的な一定の豊かさが必要である。また、通塾のほかにも「私立と公立の格差」においても、同様のことが言えるだろう。つまり、「通塾の有無」などを通じて経済的な格差が学力格差を帰結しているということが見える。

 

次に文化資本における格差からくる学力格差について。

文化資本」という言葉は、フランスの社会学者P.ブルデューによって用いられた言葉である。簡単言えば、「文化的に価値のあるもの」の総体を指している。この考えは社会学の葛藤理論的な系譜の中から生じている概念であり、「文化資本」という言葉にはそれを感じとることができる。「文化資本とは文化的に価値のあるものの総体である」と述べたが、「文化的に価値があるもの」とは誰が決めるのだろうか。それは、社会における特権階級に属している人々である。言い換えれば、特権階級の人々に偏って共有されている文化が「文化的に価値があるもの」であることが多い。つまり、「文化的に価値のあるもの」は底辺階級の文化においてはそれほど共有されているもので無いことが多く、そこには階層間の格差が存在している。「文化的に価値のあるもの」としての文化資本には教育に関するものもある。例えば、「家庭で学習する習慣」や「学校での成功を重視する価値観」などがそれである。こうした価値観や習慣も社会階層に偏って偏在しており、苅谷剛彦先生の調査によれば、親の職業的階層や学歴的な階層が高ければ高いほど、子どもたちがそうした習慣や価値観をもっていることが明らかにされている。

 

 

三点目は、学習意欲における格差からくる学力格差である。

学習意欲は、捉え方によっては文化資本的な側面に含まれるのかもしれないが、論点として興味深いのであえて文化資本とは分けて語ることにする。

志水宏吉先生は、学力の木という考えの下で、「学習意欲」は知識や技能を形成していくための「根っこ」のような役割を持つものであると述べている。意欲がなければ学習をしようとは思わないであろうし、これは誰もが納得できる主張であると思う。だからこそ、学習意欲において、階層間の格差があればそれは学力の格差へと直結するものであると考えられる。

では、学習意欲において階層間の格差はあるのか。苅谷剛彦先生の研究によれば学習意欲において階層間の格差は存在しており、それは学力格差と同様に時とともに拡大している、という。

学習意欲と言っても、意欲には二つの側面がある。一つは内発的に動機付けられた意欲であり、もう一つは外発的に動機付けられた意欲である。例えば、学校的な勉強することそれ自体が喜びであり、その喜びを得るために学校の勉強を行う場合、それは内発的に動機付けられた学習である。一方で、社会で一定の地位を得るためにはそれなりの学力を修めなければいけないからという理由で学校の勉強を行う場合、それが外発的に動機付けられた学習である。1989年の学修指導要領以降、「教育における競争に否定的な姿勢」とそれを「内発的に動機づけられた学習―主体的な学習」でカバーしようという意図が、学習指導要領には含まれている。これはいいかえれば、学習における「外発的な動機づけ」を見えにくくし、一方で「内発的な動機づけ」をより強調する傾向であるといえる。

こうした意図での指導要領の改革の結果、何が起きたのか。苅谷剛彦氏によればそれは、底階層出身の子どもたちの急速な意欲低下であり、学習離れであった。

なぜそれが起きたのかと言えば、低階層出身の子どもたちは、文化資本の部分でも触れたが、学校的な価値を重視する傾向が低く、そのため学習への意欲はおもに外発的な動機づけによって支えられていた。しかし、学習指導要領の改革に伴って外発的な動機付けの側面が見えにくくなってしまい、結果として意欲そのものが低下することになってしまったのだ。一方で高階層出身の子どもたちにとっては、学習指導要領の改正で外発的な動機付けが見えにくくなっても、外発的な側面の重要性に対する理解に大きな変化はなく、且、低階層出身の子ども以上に、内発的にも動機づけられているため、意欲は低下しなかったということが言える。

このように、一見すると個人の問題のようにも見える学習意欲でさえも、階層によって大きく規定されていることがわかる。

 

以上みたように、階層的な要因が学力格差の背景にはあるのだ。

 

 

 

参考文献

苅谷編著 教育の社会学 有斐閣アルマ

苅谷、志水編著 学力の社会学

木村、小玉、船橋 教育学をつかむ 有斐閣

苅谷 学力と階層 朝日新聞出版

苅谷 階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会

志水 「つながり格差」が学力格差を生む